中国・エチナ地域調査(2007年8月4日~12日)

小方 登(京都大学 人間・環境学研究科)

科研費プロジェクト「高解像度衛星データによる古灌漑水路・耕地跡の復元とその系譜の類型化」(代表:相馬秀廣・奈良女子大学教授)の一環として2007年8月に行われた,中国・内蒙古自治区・エチナ・オアシス周辺での調査に参加した時の写真アルバムです。研究の成果は,これとは別に論文等の形で発表されます。

対象地域のエチナ・オアシスは,祁連山脈に源を発し,河西回廊を潤す黒河(エチナ川)が終わる地点にあります。この地域における最も主要な遺跡はカラホト(黒城)で,西夏・元代の都市遺跡ですが,1908年にロシアの探検家コズロフが踏査し,報告しています。この地域についての包括的な調査としては,スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンが企画し,1930年前後に行われた中国・スウェーデン合同の「西北科学考査団」によるものが有名です。この中で,エチナ・オアシス周辺の考古調査では,スウェーデンの考古学者フォルケ・ベリマンが中心的な役割を果たしました。この調査では,多くの遺跡から大量の木簡が発掘され,それらの解読の結果,漢代に「居延」と呼ばれたこの地域が,モンゴル高原の遊牧・騎馬民族である匈奴に対抗するための前線基地であったことが明らかになりました。近年における出土木簡についての包括的な研究成果としては,中国人民大学の魏堅教授が編集した『額済納漢簡』(2005)があります。

右の衛星画像からは,現在のオアシスの東南方の砂漠に,かつてオアシスが広がっていたことがわかります。さらにその東側には,現在より大きな湖が存在したこともわかります(史書に見える「居延沢」)。

魏堅教授と斉烏雲副教授(中国社会科学院考古研究所)には,本プロジェクトの研究パートナーとして,今回の調査に同行していただき,大変お世話になりました。

相馬教授は2012年8月に逝去されました。ここに謹んでご冥福をお祈りします。

 

  LANDSAT画像(1990年7月30日撮影)を用いた対象地域の概観

【参考文献】


8月4日:北京で魏先生・斉先生らと合流し,銀川へ。銀川泊。


8月5日:銀川から,エチナ・オアシスの中心都市,ダライ・フブへ。以下,10日まで同地に滞在。

まる1日かけて車で移動するが,その間,都市・集落などはほとんどなく,ひたすら乾いたゴビ灘(礫漠)が続く。地平線に逃げ水が見える。


8月6日午前:漢代の烽燧(烽火台)の遺構,大同城,カラホト(黒城)の都市遺跡を見学。

←漢代の烽燧の遺構。「第十四燧」とされる。
大同城→

カラホト(黒城)のCORONA衛星写真。1969年9月29日撮影。

マルコ・ポーロは『東方見聞録』で「タングート大州(旧西夏)」にある「エチナ市」について触れ,『元史』巻60「地理志」は,「亦集乃(エチナ)路」に「夏国(西夏)」が「威福軍」を設置し,元のフビライ・ハンの治世1286年に「総官府」が設置されたと述べる。これらはカラホトをさすと考えられている。明の初代,洪武帝の治世1372年に,明の軍隊が「亦集乃路」を攻略したことが『明太祖実録』巻74に見え,このころを境にカラホトとその周辺は衰微していったと思われる。

 

 

 

カラホト城壁の西側面→

←カラホト城壁の西北隅にある仏塔群
内側から見た城壁→

8月6日午後:オアシス北方にある《A1》「ツォンツェン・アマ」遺跡を見学。出土木簡に見える漢代の「殄北候官」とされる。

←《A1》遺跡の城壁。
城壁の上からの風景。砂交じりの風が吹きすさぶ→


8月7日:午前は《K688》,午後は《K710》を見学。これらの符号は,ベリマンらがつけたもので,いずれも漢代の軍事・行政の拠点であった。《K710》は出土木簡に見える「居延都尉府」であったと考えられている。

 
←《K688》別名「ヤプライ城」の城壁。
《K688》の城壁は,巨大なタマリスク・コーンで覆われている部分も多い→

 

←胡楊の木陰で昼食&昼寝。
足音に目を覚ますと,放牧されているラクダの群れが歩いていた→

←《K710》の城壁。内部には陶片や石臼が散乱している。
《K710》の全景。左の写真奥に見える砂丘の上から撮影→

「呴黎湖単于が立つと,漢は光禄徐自為をつかわし,五原の楡林塞から数百里を出,その尖兵は千余里の遠方に出て,盧胊山にいたるまで、山塞や望楼をつらね築かせた。そして遊撃将軍韓説・長平侯衛伉らをその近傍に駐屯させ,彊弩都尉の路博徳に命じて,居延沢のほとりに塞を築かせた。」『史記』「匈奴列伝」(小竹文夫・小竹武夫訳,筑摩書房刊)より。


8月8日:午前は《P1》「ボロ・ツォンチ」遺跡,午後は《A8》「ム・ドゥルベルジン」遺跡を見学。《P1》は「卅井候官」,《A8》は「甲渠候官」に,それぞれ比定されている。

←目的地は遠いので,砂漠の中で行程を確認。
《P1》「ボロ・ツォンチ」。自然の丘の上に漢代の烽燧がある→

 

←途中の砂漠では,ヤギが放牧されていた。
昼食と休憩は,近隣のラクダ畜産家の天幕でお世話になる→

←ゴビ灘を行く。
《A1》「ム・ドゥルベルジン」遺跡。「甲渠候官」とされる→


8月9日:1日かけて「緑城」遺跡周辺を見学。

緑城付近のCORONA衛星写真。1969年9月29日撮影。

緑城は,衛星写真上に楕円の囲郭として見える集落遺跡であり,魏先生の説明によれば,その起源は漢代以前にさかのぼるという。さらに緑城の周辺には,後の時代の墳墓が多く分布し,石臼や陶片などの遺物も多い。衛星写真でも現地の観察でも特に目立つのは,網の目のように張り巡らされた巨大な用水路の遺構であり,かつて当地で灌漑農業が行われていたことがわかる。しかし,現在ではほとんど住む人のない砂漠となっている。

←暑さを避け,早朝に出発。朝日がまぶしい。
緑城に近づく。地上に見える構造物は,魏晋および西夏・元時代の墳墓が多い→

 

←緑城の城壁。古い部分は漢代以前にさかのぼるという。
西夏・元代の水路跡。向こうに見えるのは魏晋代の墳墓→


8月10日:エチナ・オアシスの北,黒河(エチナ川)の終端にある湖,ソゴ・ノールと,この湖を見下ろす高台にあるチベット仏教の聖地,ボロ・オボなどを見学。途中の道筋には,胡楊の森がある。

←チベット仏教の聖地,ボロ・オボ。
ボロ・オボがある高台から眺望するソゴ・ノール→

 

 
←胡楊の巨木。「神樹」として尊崇されている。
夕方には,内蒙古自治区成立60周年の記念行事が催された。ダライ・フブにて→


8月11日:早朝,ダライ・フブを発って銀川へ。同日,空路北京へ。北京泊。


8月12日:北京発。帰途へ。


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